 |
| |
 |
| 日本史表舞台にはあまり登場しないが、戦国時代の裏舞台を暗躍し、晩年には天下のご意見番に君臨した実力者。幼少の頃に疱瘡の毒に冒され、右目を失明。片目を眼帯で覆いながらも幾つもの戦を勝ち抜き、猛々しい戦いぶりと黒眼帯の風貌から「独眼竜」と称された。関ヶ原の戦い(1600)の後、62万石を有し仙台城を建築。寛永13年(1636)江戸桜田にて永眠。「雲りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」という辞世の句が遺されている。 |
|
|
 |
| 伊達政宗の墓 |
|
|
|
| |
 |
| 戦国武将には珍しく、義理堅く実直な人柄が有名。「利よりも義」を掲げて各地を転戦し、相模・北条・甲斐・武田氏等の強敵と度々争った。特に武田氏とは数度に渡り対戦し、「川中島の陣」等は現代にも有名。1561年上杉姓に改名、関東管領職につく。北陸方面まで勢力を拡大し加賀能登を制圧、1577年には織田信長を加賀・手取川で破っている。兵を総動員して上洛を図るが、出陣を前に49歳で急逝。毘沙門天を崇拝し、一生不犯を通したといわれている。 |
|
|
 |
| 上杉謙信の墓 |
|
|
| |
●上杉謙信霊屋(重文)
信玄の墓の筋向いを山手に登った所にある。正面三間、奥行二間、入母屋造の美しい建物で、様式・手法から慶長年間(1596〜1615)の建築と推定される。上杉謙信は厚く高野に帰依し、密教の阿闍梨位をえたほどであるが、「天下統一のために是非高野山の力を借りたい」という手紙も残っている。戦国武将の中には、当時公称寺領17万3千石、数万の僧兵を擁する高野の勢力に、熱い視線を注ぐ者が少くなかったが、信玄・謙信という好敵手も、共に高野山へは深い関心を寄せていたのである。
謙信の霊屋から、墓石の間の小道を山腹に沿って行くと、桜田門外に波乱の生涯を終えた幕末の大老井伊直弼を生んだ、彦根城主井伊家の霊屋がある。 |
|
| |
 |
| 機知に富み、知略に長けた戦略で名を馳せた名将。「風林火山」(疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)など、戦略・戦法についての格言が現代にも多く語り継がれている。又、政治にも長け、分国法制定、信玄堤構築等多くの実績を遺す。駿河制圧後、大軍を率いて西上の途につく。尾張・織田・三河・徳川連合軍を三方ガ原に撃破したが、途中病に倒れ、引き返した信濃で53歳にしてこの世を去った。 |
|
|
 |
| 武田信玄の墓 |
|
|
| |
●武田信玄・勝頼の墓(県文化財)
頼宣と吉宗の墓の中間にある。成慶院(現桜池院)に伝わる武田勝頼の書状によれば、信玄の死後勝頼は供養料としての黄金十枚と共に、長谷川信春(等伯の前名という)作の信玄の肖像画を同寺に納めている。この絵は信玄肖像画の決定版とされ、戦前国定教科書のさし絵にもなったもので、現在は重文に指定されている。この他信玄愛用のカブトや勝頼夫妻の肖像画も現存し、高野山と武田家との深いつながりを感じさせる。
参道の右側、柵で囲まれた広い墓地に並ぶ二基のうち、大きいほうが信玄の墓である。 |
|
| |
 |
暗殺された父の仇をうつために生きた悲劇の兄弟。
兄の曽我十郎祐成、弟の曽我五郎時致二人の父、河津三郎祐泰は安元2年(1176)
所領争いに巻き込まれ、殺された。兄弟は父の敵である工藤祐経を討つことを決めた。17年の後の建久4年、兄弟は遂に臥していた祐経の寝所に入り、起きた祐経に名乗りを上げて剣を交え、遂に父の仇討ちを遂げた。が、兄祐成は騒ぎに駆けつけた武士によりその場で斬殺され、弟時致もまた捕らえられ断首の刑に処されたと言う。 |
|
|
 |
| 曽我兄弟の墓 |
|
|
| |
●曽我兄弟の墓
一の橋を渡って間もなく、分岐する左手の道のとっつき山側にある。十郎・五郎の兄弟が、父の仇工藤祐経を討ったのは建久4(1193)年の5月であった。この年6月、兄弟の従者であった鬼王と団三郎が兄弟の遺骨を高野山に納めたという。二人は出家して山麓天野に住み、主人の菩提を弔ったと伝えられ、その墓というのが天野大社の近くに残されている。兄弟の墓碑は、父の河津祐泰の墓と一緒に三基並んでいるが、五輪塔の形状などから相当古いものと考えられる。 |
|
| |
 |
| 貧しい百姓の生まれであったが、戦国乱世を駆け上がり、「太閤」と呼ばれるまでの地位を確立した。天正18年(1590)、秀吉は小田原(おだわら)攻めを行い、最後まで抵抗していた関東の北条(ほうじょう)氏を屈服させて天下統一を成し遂げる。その後秀吉は朝鮮明国の制圧を目論み、慶長2年(1597)十四万の大軍を朝鮮へ派兵したが、間もなく癌を発病。「露と落ち露と消えにし我身かな 難波の事も夢のまた夢」と野望への未練をのこしつつ、翌年6月伏見で病死した。志は後継の秀頼に託されたが、慶長20年(1615)大阪の役(大阪夏の陣・冬の陣)で徳川家康に敗れ、母淀君とともに自害。秀吉が築いた栄華の夢は、炎上する大阪城と共に幕を閉じた。 |
|
|
 |
| 豊臣家墓所 |
|
|
| |
●豊臣家の墓地(県文化財)
霊屋の前で道が左右に分かれるが、左の道を行き左手の石段を登った所にある。玉砂利を敷き玉垣をめぐらした300平方メートルほどの墓地に、数基の五輪塔が一列に並んでいる。中央やや後方寄りの「豊臣太閤秀吉之墓」とある大五輪塔は、昭和十四年に京都の豊国廟から霊士を移して建立されたものであるが、他は何れも天正15(1587)年から20年にかけて建立されたものである。
天正十五年といえば、秀吉が高野山を無条件降伏させた二年後であるが、この年早くも母のための逆修碑が建立されている。その後秀吉自身の逆修碑をはじめ一族の供養碑や逆修碑が次々に建立されたようで、江戸後期までの案内記には、どれも「太閤墓」の記載がある。
しかし現在碑銘によって確認できるのは、母のなか、弟の大和大納言秀長夫妻、秀次の母である姉のとも、長男の鶴松、それに淀君の逆修碑と推定されるものの六基だけで、秀吉の墓も北政所ねねの墓も見当たらない。 |
|
| |
 |
| 斬新な戦略と綿密な計画で天下にその名を轟かせた稀代の武将。「鳴かぬなら 殺してしまえ 時鳥」の歌に例えられるように、桶狭間の奇襲攻撃や比叡山の焼き討ちなど、冷酷無比且つ容赦のない戦いで知られる。今川義元はじめ、美濃・斎藤や甲斐・武田等の強豪を次々に突破し天下統一を手に掛けるが、1582年、京の本能寺逗留の際に臣下であった明智光秀に裏切られ、自害して果てた。享年49歳。 |
|
|
 |
| 織田信長の墓 |
|
|
| |
●織田信長の墓
御廟橋の近く参道の左側を20メートルほど上った所にあり、高さ約2メートルの五輪塔には信長の法名と命日が刻まれている。信長の墓は江戸時代の記録にはあるのに、なぜか明治以降は案内書にも記載されず、長い間人々から全く忘れられたままになっていた。それが昭和45年に高野山文化財保存会により再発見され話題となった。
世上語られる信長の高野攻めについては、「高野春秋」の記述を中心にしたものが多い。それによると、織田方の軍勢が紀州に攻め込んだのは、天正9年10月2日であった。信長の三男信孝を総大将に、堀秀政を先陣の将とする13万7千の大軍が、五日は早くも登山口を封鎖し紀の川筋一帯を占拠した。高野山方は蓮上院弁仙を総大将に、行人・山領の武装農民・浪人ら3万6千の兵力ながら、地の利を生かした奇襲戦法などで奇手を悩ました。とくに天正10年2月の学文路西尾山の攻防や、4月飯盛山における両軍主力の激突ではめざましい活躍を見せている。そして6月2日の本能寺の変により、織田方は急遽囲み解いて撤退したという。 |
|
| |
 |
| |