高野山マメ知識

法具について HOUGU

密教の修法に用いる道具で、煩悩を打ち破るための金剛杵、神仏の注意を引き、喜ばせるための金剛鈴などがあります。

五鈷鈴(ごこれい)

五鈷鈴(重文) 高野山金剛峯寺/提供:高野山霊宝館

修法の際、大壇の四方と中央に置く5種の金剛鈴のひとつ。一方が杵、一方が鈴の形。

独鈷杵(とっこしょ)

独鈷杵(重文)高野山金剛峯寺/提供:高野山霊宝館

古代インドの武器が原型という金剛杵のひとつで、両端がひとつの突起になったもの。

三鈷杵(さんこしょ)

三鈷杵(重文) 高野山金剛峯寺/提供:高野山霊宝館

両端が三俣になった金剛杵。空海が中国からの帰途、高野山に投げたとの伝説も。

五鈷杵(ごこしょ)

五鈷杵(重文) 高野山金剛峯寺/提供:高野山霊宝館

煩悩を打ち破る金剛杵のひとつで、両端が五俣になったもの。

五輪塔 GORINTO

宇宙を構成する空・風・火・水・地を表す五つの石を重ねた形の塔。大日如来を象徴しているとされ、日本では平安時代以降、故人の供養塔として建立されました。その始まりは高野山といわれます。奥之院には多くの五輪塔の墓碑が立ち並んでいます。
上から宝珠(ほうじゅ)形の空輪(くうりん)、半月形の風輪(ふうりん)、三角形の火輪(かりん)、円形の水輪(すいりん)、方形の地輪(ちりん)で、それを意味する梵字(サンスクリット語)が刻まれています。

⾼野⼭の伝説 LEGEND

⾼野にハブなし

自然の豊かな高野山には昔は毒をもった大蛇(ハブ)もたくさんいて、参詣に訪れる人々を待ち受けて襲っていました。それを憂えた弘法大師空海(お大師さま)は竹箒(たけぼうき)でこの大蛇を封じ込めました。そして、再び竹箒を使う時代がきたらこの封印を解いてやろうと大蛇に伝えました。これ以降、大蛇の封印が解けないよう高野山では竹箒が使われなくなったとか。実際、高野山では長く「禁植有利竹木 (きんしょくゆうりちくぼく)」といって、竹を植えることも禁じていました。山内では屋内の清掃にコウヤボウキ、屋外にはクロモジで作った箒が使われてきたそうです。

⾼野に⾅なし

豊臣秀吉が亡き母の菩提を弔うために高野山を訪れた時のこと。秀吉は割り粥(米粒を臼で割り、粥にしたもの)をつくるよう住職に命じました。しかし、高野山には米臼がなかったため、米粒を包丁で二つに切って献上したそうです。米粒の切り口が見事なことに気付いた秀吉は、「山に臼はないのか」と住職に尋ねました。すると住職は「はい。女人禁制の山に臼をつく杵(きね)はたくさんありますが、臼はひとつもありません」と答えたそうです。機転に満ちた返答に秀吉は上機嫌だったとか。

姿⾒の井⼾

奥之院の参道、中の橋近くには「汗かき地蔵」と呼ばれる地蔵堂があり、その隣に小さな井戸があります。この井戸水をのんで病気が治ったとの伝えにより、「薬井」とも呼ばれます。ところが、江戸時代、誰が言い出したのか、この井戸をのぞいて自分の姿が水に映らないと3年以内の命という噂が広まりました。以来、この井戸を「姿見の井戸」と呼ぶようになったといわれます。奥之院に伝わるちょっとこわい不思議な伝説のひとつです。

⾼野の⼤⾬

雨には不浄を洗い流す力があるといわれています。高野山では開創以来、仏教の教えから殺生を禁じ、魚肉を食することも控えられてきました。肉食文化をもつ異国の人が訪れると、弘法大師空海(お大師さま)はお山を洗い清めるために大雨を降らせたと伝わります。他の説では、殺生を嘆き悲しんだ大師が流された涙が大雨になったとも。また、毎年、弘法大師空海(お大師さま)の命日の法要、御影供の翌日にはきまって大雨が降るといわれます。

⽟川の⿂

殺生が禁じられている高野山で、ある山男が玉川のほとりで小魚を捕って串刺しにし、焼いて食べようとしていました。それを見かねた弘法大師空海(お大師さま)は、山男から串刺しにされた魚を買い取り、清流に放流しました。すると、死んだはずの小魚がすいすいと泳ぎはじめたのです。それを見た山男は殺生の罪を悔い、この時から魚を捕るのをやめました。小魚に斑点があるのは串の跡といわれ、高野山の住人は今でも斑点のある小魚を食べないそうです。

杖ヶ薮

高野山高野町には杖ヶ藪という名の町があります。ある時、弘法大師空海(お大師さま)が京から高野山に帰る途中、険しい山道を歩くために竹の棒を杖として使っていました。無事高野山に着き、その竹の棒が必要なくなったため、道端の地面にさしこみました。すると、その竹の棒がたちまち根をつけ枝をはり、葉をつけて大きな竹藪になったとか。これが杖ヶ藪という地名の由来。そのため杖ヶ藪には、弘法大師空海(お大師さま)を祀るお堂が多く、また、奥之院の弘法大師に野菜を届ける「御番雑事(ごばんぞうじ)」という伝統行事も生まれたそうです。

かくばん坂

奥之院参道の姿見の井戸から御廟橋方面に続く石段の坂道を覚鑁坂と呼びます。ここの石段は43段あります。一説には、もともと42段あったのが、42は「死に」と言い換えられることから縁起が悪いとされ、1段加えられ43段になったとか。また、43段昇りきることができれば42(死に)を乗り越えたことになり、死後は極楽浄土へ行き生まれ変わるとも。しかし、もしもこの坂の途中で転ぶと寿命が3年もたないとの言い伝えがあり、別名三年坂と呼ばれています。もしかすると石段の坂道で転ばないよう注意喚起のためにそんな言い伝えが生まれたのかもしれません。

歴史と⾼野⼭ HISTORY AND KOYASAN

武田信玄と上杉謙信

武田信玄と上杉謙信は、戦国時代に活躍した大名です。甲斐国の武田信玄は戦国最強といわれる軍隊を育て、その圧倒的な強さから甲斐の虎とよばれました。そんな信玄のライバルが、越後の龍と呼ばれた上杉謙信。電光石火の戦術で織田信長も破り生涯ほぼ負け知らず。その二人がはげしくぶつかった戦が「川中島の戦い」です。11年間に5度戦い勝負がつきませんでした。
「敵に塩を送る」という故事の元になった二人のエピソードも有名です。北条氏たちから、塩を売る商人が信玄の国に入ってこられないよう「塩止め」をされていた時、敵ながらも塩を止めなかったのが、信玄のライバル、上杉謙信だったといいます。
高野山奥之院では、弘法大師御廟に向かう参道、一の橋から二の橋に向かう途中、武田信玄・勝頼父子の2基の供養塔(五輪塔)と、上杉謙信の朱塗りの華麗な霊廟(重要文化財)が参道をはさんで立っています。戦国の龍虎が川中島の合戦さながら対峙しているかのようです。

織田信長と明智光秀

織田信長は戦国・安土桃山時代の武将。「天下布武」を掲げて天下統一を成し遂げようとしました。鉄砲を使うなど戦術に優れ、楽市楽座による自由経済を奨励。キリスト教を保護する一方、比叡山延暦寺を焼き討ちにし、高野山も攻略しようとしました。しかし、天下統一目前の天正10年(1582)、重臣であった明智光秀の謀反により本能寺で自害します。
そんな織田信長の供養塔が奥之院の弘法大師御廟手前にあります。多くの高野聖を殺めた武将をも受け入れる、高野山の懐の深さを象徴するような石塔です。
一方の明智光秀は豊臣秀吉に敗れ、伏見で落武者狩りに討たれます。天下人の座にいた期間があまりに短いことから「三日天下」といわれます。奥之院には明智光秀の供養塔もあり、御廟に向かう参道中ほど、中の橋手前に小さな五輪塔がたたずんでいます。光秀の供養塔は信長の恨みのためか、何度直しても石にひびが入るという言い伝えがあります。 

豊⾂秀吉

信長の後を継いだ秀吉は天下統一を成し遂げました。下剋上の世で足軽の身分から天下人に上り詰めた、戦国一の出世頭といわれます。大坂城を本拠に太閤検地や刀狩り、石高制などの政策で国内を統合。豪華絢爛な聚楽第の建立など桃山文化の発展に貢献しました。
秀吉は当時強力な兵を持つ高野山勢力を抑え込む一方で高野山復興に尽力し、亡き母の菩提を弔うために現在の金剛峯寺の前身である青巌寺を建立しています。 高野山を庇護した豊臣秀吉の供養塔は奥之院御廟橋の手前、参道より一段高い所に築かれています。

⽯⽥三成

石田三成は豊臣秀吉に忠義を貫いた重臣でした。一人は皆のために、皆は一人のためにといった意味の「大一大万大吉」を旗印に、戦乱の世を鎮めようと太閤検地などの政策に携わりました。
秀吉の死後、次の天下人の座を窺う徳川家康と対立し、秀吉恩顧の大名を結集。関ヶ原で天下分け目の戦いを繰り広げました。しかし、三成率いる西軍の大敗に終わります。三成は京の六条河原で斬首されました。
奥之院にある石田三成の墓は、中の橋手前、明智光秀の五輪塔の隣にあります。敗軍の将ゆえか小さな五輪塔が一基あるのみです。

徳川家康

江戸幕府を開いた徳川家康は、幼少時代人質として育ち、耐え忍んでついに天下をとった武将といわれています。大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし幕藩体制を敷き、その後264年続く太平の世の礎を築きました。満73歳まで生き、長命であったことも天下をとれた要因のひとつ。漢方薬を自分で調合するなど独自の健康法を実践していたといわれます。
奥之院では諸大名の五輪塔が墓石群の中核を占めますが、これは家康が高野山を菩提所と定めたことが大きな要因です。
女人堂近くには徳川家霊台(重文)があり、家康・秀忠父子が祀られています。

松尾芭蕉

江戸時代の俳人で生涯旅を愛した松尾芭蕉。「おくのほそ道」の紀行文で有名ですが、高野山へは二度訪れたといわれています。
一度目は主君良忠の菩提を弔うため高野山報恩院を訪れた時。二度目は春の頃、高野山に参詣した時で、亡き両親を偲んで「父母のしきりに恋し雉子(きじ)の声」と詠んでいます。この句を刻んだ芭蕉の句碑が、奥之院中の橋から御廟橋に向かう参道左手にあります。
報恩院には芭蕉の死後、弟子が芭蕉の遺骨を納めたと伝えられています。院内には芭蕉堂があり今も多くの参拝者が訪れ句帳に即吟句を残しています。

⾼麗陣敵味⽅戦死者供養塔

奥之院の中央にある密厳堂から参道を少し進むと島津家の墓所があり、手前に供養塔があります。高麗陣とは豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のこと。秀吉の配下で島津義弘は朝鮮半島へ出陣し、死闘を繰り広げます。戦功も立てましたが、島津軍は義弘の嫡男久保をはじめ多くの将兵を失い、多大な損害を被りました。慶長3年(1598)の秀吉の死により戦争は終結へ。その翌年、薩摩藩主、島津義弘・忠恒父子が、朝鮮出兵の敵味方の犠牲者の霊を供養するために建てたのがこの供養塔です。

企業墓

アポロ11号を模した慰霊碑(新明和工業)、巨大なカップ&ソーサー(UCC上島珈琲)、ヤクルト型墓石、福助人形など、奥之院では200メートルほどの石畳の道の両脇に、企業の商品やロゴを模した墓石が多く集まっています。これらは企業が建てた慰霊碑で、亡くなった従業員などを供養したり、業界団体が建てたものも。古くは江戸時代に旅籠や商店が石碑を建てたのがルーツといわれます。株式会社としては1938年の松下電器産業(当時)の「松下電器墓所」がもっとも古く、隣には「パナソニック墓所」と記された新しい石碑もあります。