戦国武将・大名家の20万基にも及ぶ墓碑

戦国武将・大名家の20万基にも及ぶ墓碑

戦国・江戸期の約50%以上の大名家が供養塔や菩提所として
高野山とのゆかりをもっています。

墓碑墓碑墓碑墓碑

墓碑墓碑墓碑

「越後の龍」と呼ばれた 武将

上杉謙信うえすぎけんしん

謙信は義理と人情を重視する武将だったといわれている。
武田信玄と幾度も戦いをしたことは有名だが、敵である武田信玄が今川との戦いで、塩を止められ困っているとき「戦いは刀でおこなうべき」と武田に塩を送って助けた。
また武田信玄が病没したと聞いたとき、食事中だった謙信は箸を落として号泣し、家臣が武田を攻めようと進言したが耳をかさなかったという。

乱世におそれられた「甲斐の虎」

武田信玄たけだしんげん

上杉謙信と並べて称される武将。「風林火山」の旗印は、『疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し』と読む。
信玄は身分に関係なく能力のある者を重用し、常に「人は石垣、人は城」と言っていたという。
日本で初めて水洗トイレを設置、鈴を鳴らすとそれが伝えられ水が流される仕組みだったという。

上杉謙信と武田信玄の一騎打ちエピソード

何度目かの戦の時、上杉謙信が自ら馬にのって武田本陣の守りを突破して信玄に刀で斬りつけた。
信玄はとっさに軍配を掲げてその斬撃をかわした。
数度繰り返し一騎打ちは終わった。

戦乱の世、天下統一を最初に成し遂げ
ようとした武将

織田信長おだのぶなが

「天下布武」の印判を用いたことで有名。
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり…」という語りのある曲舞を好んだという。
茶道をたしなみ千利休を師事した。また一方ではキリスト教の布教を許し、宣教師より地球儀を贈られ地球が丸いということを日本で初めて知ったともいわれている。
天下統一を目前に、本能寺で家臣に奇襲をかけられ寺に火をかけ自刃した。焼け跡から信長の遺骸は見つからなかったという。

本能寺の変で謀反 天下統一目前の織田信長を
討った武将

明智光秀あけちみつひで

信長の家臣でありながら、天下統一目前というときに謀反をおこし本能寺で信長を討った逆臣として有名。
しかし、戦死した家臣の遺族に見舞いの書状を送ったり、年貢をごまかした百姓を家臣が罰しようとすると「仏のウソは方便、武士のウソは武略、それに比べれば百姓のウソはかわいいものだ」とそのままにしたという。
心優しく家来思いで、領民思いのお殿様だったようだ。
謹厳実直で礼儀正しく、マジメで小心者、物静かな人物だったという説もある。

農民の子から城持ち大名へ昇りつめた
武将

豊臣秀吉とよとみひでよし

織田信長の草履取りであった時、冬の寒い夜に草履を懐に入れて温めた逸話が有名。
また、墨俣城を一夜にして完成させたという伝説も残る。
本能寺の変の後、明智光秀を討伐し織田信長の後に天下統一を目指した。
明るく社交的な性格で足軽の身分から天下を統一した人物として戦国一の出世頭と評された。
「人たらし」とも呼ばれ人を引き付ける魅力が相当あったようだ。かなりの派手好きだったという伝説も残っている。
高齢まで子供に恵まれず、沢山の養子をとったが、実子が出来るとその子の行末を案じながら病没したという。

豊臣家を守るために戦い
秀吉に最後まで忠義を尽くした武将

石田三成いしだみつなり

三成が秀吉の家臣として召し抱えられた逸話「三献の茶」は有名である。
三成は自身の出世よりも秀吉のため、豊臣政権のためになることを重視した武将だったといわれる。
武勇の逸話より政治面や経済面の活躍の方が多く伝わる。
秀吉没後、関ケ原の戦いで徳川家康に敗れ、京の六条河原で斬首された。
斬首される前に三成は喉が渇いたと水を所望する。
しかし水は無いが柿ならあると干し柿を与えられると「柿を食べると身体に障るのでいらない」と食べなかった。
それを聞いた者が「すぐ死ぬのに身体を気にしている場合ではないだろう」と笑うと「大志を持つ者は最期の最期まで諦めないものだ」と返答したという。

秀吉 中国の大返し

6月2日、本能寺の変が起り、主君信長と後継者の信忠が襲われた。
そのとき秀吉は、京の都から200km離れた備中高松の地で戦中だった。
この変報が秀吉に届いたのは3日深夜から4日の早朝だったという。
秀吉は、すぐさま戦を和睦にし、主君の仇討に向う。
京までの道中には信長が討たれたことで天下を狙う武将が沢山いた。
そこで秀吉は各藩主に「信長さま・信忠さまご無事。」とふれ回り、13日には無事、山崎の戦いに摘陣し総攻撃をかけ、見事敵を追いつめたという伝説が残されている。
わずか七日間の出来事であった。

天下泰平の礎を作った武将

徳川家康とくがわいえやす

家康が開いた江戸幕府は約260年続いた。家康は幼少期、人質としての生活が長かったせいもあり質素倹約の生活を通したので、ケチであったという話がたくさん残っている。
しかし、人質時代に勉強したことが後の政治に活かされたともいう。
また大変知識豊富な人物だった。特に漢方に詳しく、自ら薬を調合し(結果的にその薬にあたって死んだといわれるほど)薬マニアで健康オタクだった。
鷹狩は健康のために欠かさず、食生活にも気をくばった。
季節ごとの旬の物を食べ、季節外れの物は食べなかったという。
旬の物には多くの栄養が含まれているからで、現在のように保存技術のない昔、季節外れの物を食べると体調を崩す原因になったからだという。
江戸時代になり狂歌が残っている。「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」
家康は決して無敵の勇将ではなかった。負け戦の経験も少なくない。
しかしそれを単に恥じるのではなく、そのときの肖像画を描かせ、自分への戒めとして常に傍らに置いたという話も残っている。

戦国武将の相関図