昔は高野山にも大蛇のような毒蛇がたくさんいたそうで、参詣人を見つけると襲いかかってきた。これを聞いた大師はたいへん嘆き、竹のホウキでこの大蛇を封じ込め、再び竹のホウキを使う時代になれば封じを解くと約束された。

豊臣秀吉が、割りがゆを所望した時、住職とのやりとりで、「山に臼はないのか」と言う秀吉に住職は「はい。女人禁制の山に杵はたくさんありますが、臼はひとつもありません」と答え、機転に満ちた対応に秀吉は上機嫌だったとか。
奥の院の参道、中の橋の橋詰に汗かき地蔵をお祀りしているお堂がある。その右側にある小さな井戸は姿見の井戸と呼ばれ、この井戸をのぞき込んで自分の顔が映らないと3年以内に死んでしまうといわれている。

開創以来、魚肉を禁じていたので、肉食愛好の異人さんが登山すると大師はお山を洗い清めた。また、毎年御影供の翌日には不浄を流し清めるために大雨が降るとか。
玉川のほとりで小魚を捕り、串刺にして焼いて食べようとしていた山男を見つけた大師は、小魚を買い取り、清流に離してやった。すると、死んでいたはずの小魚がすいすいと泳ぎはじめたので、男は殺生の罪を悔い、魚を捕るのをやめた。小魚の斑点は串の跡といわれ、今でもお山の人はこの魚を食べない。

大師が京からの帰り道、それまで杖に使っていた竹の棒をもういらないと思い、道端にさしこんだ。その逆さまの竹の棒がやがて根をつけ枝をはり、葉をつけて大きな竹藪になった。
奥の院参道の、中の橋を渡ってすぐさしかかる石段は、覚鑁坂と呼ばれている。途中で転ぶと3年ともたないとか。そのために、ここの石畳は42(死に)を越えるという意味で43段になっている。別名は三年坂。
